YIDFFで見たジョシュア・オッペンハイマーの”殺人という行為”
インドネシアに対して知っていることと言えば、人口が結構たくさんいて(2億強だそうです。)、昔スカルノという人が大統領をしていて、その何番目かの奥さんがデヴィ夫人。ここ数年は景気が良くてベトナムとかと一緒にポストBRICSのような感じでたまに経済のニュースで取り扱われている。津波被害があったスマトラ島を国土に持っていて、首都はジャカルタ。精一杯振り絞って出てくるこの認識レベルは日本人のインドネシアに対する平均的な認識とあんまり変わらないんじゃないかと思う(本人がそう思ってるだけで皆もっと知ってるのかもしれない)。
昔大量虐殺があったというのを聞いたことはあるが、9月30日事件なんて知らなかったし、ましてはパンチャシラなんて聞いたこともない。インドネシアの今(側面でしかないとは思うが)を初めて知る。
監督曰く、インタビューした40数人目に会った、この映画の主人公になるアンワル。自ら作る1965年の再現映画で被害者役を演じるが、基本的に素人なので大根っぷり満載の演技をするのだが殺害された被害者を演じるシーンだけ異様にリアルな演技をする。アンワルは、殺されていく人々を見ないようにしながらも見ていたのだろう。映画後半のアンワル自体の仕草は、リアリティ過ぎてどうも偽物っぽく見えて何かフィクション映画を見ている感覚に陥っていった。事実は小説より・・・という言葉があるけど、それなのだろうなと感じた。
一方、この映画でずっと出てくるヘルマン。ヘルマンの行動はアンワルに比べどこか幼く感じる。それは、おそらく出来上がった組織の中で生きてきたからだろう。そして、おそらくヘルマンのような人間がパンチャシラの多くを構成しているのが現状なのだろう。50年前くらいに出来たフレームワークの中でそれが決まったもののようにして無気力に枠内で多くの人が生きているという意味では日本もインドネシアも一緒なのかなと。歴史が違って結果が異なっているだけで。
随所に見られるインドネシアの人々の現状に対する無関心。無関心というよりも諦めに近いの態度。こういう映画を通して客観的な視点が必要なのかもしれないなと思う。日本もしかりなのだろうけど。
生きるということは取りも直さず”演じる”という行為を行っている。という映画後の質疑応答の中でも出ていた話題だが、自分の望まない役を演じるには50年っていう期間は長い。
取り留めがなくなってしまったが、世界にはもっと見なきゃいけないもの、知らなきゃいけないものがたくさんある。
商業映画と比べての映画の面白さではなく、単純に知る楽しみなんだろうね。ドキュメンタリーは。